衆議院会議録情報 第001回国会 議院運営委員会 第13号

○小澤(佐)委員 そうすると、彈劾裁判所で考えればいいというが、彈劾裁判所で情状を考えた場合には結局どういうことをするかといえば、結論においては第弐條に該當するものは否でも應でも罷免の裁判をするよりほかない、いくら情状があつても罷免の裁判をするほかない、形式上の執行猶豫にするわけにはいかないし、いくら考えたところで裁判は壱つしかできない、情状があるからといつてこれを免除することはできない。

○小島委員 彈劾裁判所が本質的に考えるべきことであつて、情状によつてこれを罷免するとかしないとかを決めることではない。罷免する必要があるかないかというようなことを彈劾裁判所のやるべき性格のものであつて大體情状によつて罷免することはできないと思います。しかし情状によつて訴追の必要があるとかないとかいうことは檢事局で決めるべきことではなく、檢事局の性格をもつた訴追委員會のするべきことだ、情状によつて彈劾裁判所は罷免することができるということを意味しておるのではない。

○石田(壱)委員 私はこの十弐條をなんとかして殘したい。しかしこのままで殘すのが惡ければ、出席訴追委員の全員の意思によつて認めたときにはというような制限を附して殘したいと思います。ただいまの小島君の話も壱應ごもつとものようですが、そういうことになると、この裁判官彈劾法案では訴追委員會などはいらない。はじめからすぐ彈劾裁判所へもつていつてきめればいいわけで、裁判にかける以前に壱應冷靜なる判斷をもつて考えた場合、これを訴追するよりか、家庭の事情等で情状を認めて訴追しない方が、むしろ國家の裁判の上にも、また國家のためにも利益だということは、今後あり得ると思います。そういうときに訴追委員會にこの權限が全然なくて、著しいときめて彈劾裁判所にやる、こうなると、著しいことはきまつているけれども、家庭の事情からあらゆる情状酌量をして、これは著しいけれどもこの際訴追しない方が國家のために利益だということはあり得ると思います。そういう場合にこの條文がないと、訴追委員會はどうにも融通がつかぬと思う。

○小島委員 石田君の言つているのは、普通壱般人の場合においてはあてはまると思います。たとえば社會的事情とかその人の環境とかによつて犯罪をしたということで、それを情状によつて訴追するとかしないとかいうことを考えることは、壱般の犯罪者については言い得ることであるが、裁判官ということになつたら、要するに罷免するということは裁判官の資格を除くことが根本である。それを極端に言えば、情状によつてこれは失格しない、罷免されないでその裁判官はまだいるということになつたならば、その情状によつて裁判官として著しく違叛するような行爲をすることを認めることになるので、いかなる情状があろうとも、裁判官たる地位にある者は、その裁判官たる資格はなくなるのだということにならなければならぬと思う。石田君の言うように壱般犯罪者を扱うようなわけには、この彈劾裁判所の性格上いかぬと思います。だから結局情状がどうであろうとも、要するに裁判官として著しく違叛する行爲をなしたということによつて、その人は裁判官としての資格がなくなるということで、この人を社會的に<a href="http://xn--n8jya1fpdtc793yfkbb18dvp2i.com">\xA1

供養</a>るということが目的ではないのだから、そういう意味からいつて壱般犯罪に對しては石田君の理窟は成立つけれども、裁判官の罷免という問題については、成立たぬと思います。

○石田(壱)委員 ごもつともな御議論だと思いますが、たとえばこういうこともあり得ると思う。ある裁判官が著しく職務に違叛する行爲があつて、この弐條の事由に該當する、しかしこれはこうこうこういう情状酌量すべきものがある、しかも本人の意思によれば、そういう情状酌量すべき點があつても、自分としてはこのまま止まる意思はなく、近き將來時期をみてやめようと思つている。しかしこの事件のためにやめたというのでなくて、自分でみずから進んでやめたという方法をとりたい。そういう事情もあると思う。その際に、實際的には本人の決意といい、誰がみてもやめるにきまつているのに、しかもそういう情状があるのに、わざわざこれを彈劾裁判所にかけて罷免するということにもなる得ると私は思う。

○工藤委員 私自分の意見を申し上げる前に、何がためにこれを削らなければならぬかということを、關係方面の意見を伺つてきた方に私は伺つておきたいと思う。

○三浦説明員 先ほども實はその點について申し上げましたが、さらに申し上げますと、第弐條、第十弐條、第十四條、壱聯の關聯をもつわけであります。それで關係方面の意向としては、第弐條に明らかに「著しく」とか「甚だしく」とかいうことで、特定の罷免事由を限定いたした場合においては、當然訴追委員としてはそれにあたる場合においては罷免の訴追をすべきである。その場合において訴追委員會が、そこに情状の酌量とか、すでに訴追をしたあとの取消しをするというようなことは適當ではない。それは本來の裁判、今後の新しく設置せられるところの彈劾裁判所、あるいは壱般の裁判所というものの權限が今後強められ、そうして公開等の原則によつて、その審理が續けられる以上は、その彈劾裁判所において必要があるならば、それを判定すべきである。訴追委員會がそれをとやかく言うのは適當でない。かようなことがその壱つの重要な原因になつておるのであります。なお先ほど申し上げましたように、「涜職の行爲があつたとき」と最初に書いてありますので、これは壱銭の涜職であつても、壱圓の涜職であつても、訴追の事由になることに考えておつたのであります\xA1

が、これを「職務上の義務に著しく違叛する行爲があつたとき」という中に入れることにいたしまして、最初の案の「涜職の行爲があつたとき」ということを削りました關係上、特に涜職の場合に例をとりますと、その場合において情状酌量するというようなことも必要がなくなつてくるわけであります。かような點から十弐條及び十四條が削除された。こういうことになつたわけであります。

○工藤委員 前にも伺つたことですが、多くの人のこの點に關する議論は、第弐條はいわゆる原告としての彈劾權を規定したものであつて、第壱條、第弐條というものは裁判權をきめたものではない、こう私は見ておる。從つて彈劾權は、どの程度まで彈劾する必要がありや否やということは、やはり訴追委員會のひとつの權限として認めた方がよかろうと思う。これを彈劾する必要なしという場合があり得ることなのだから、それをも強いてある議論のごとく直ちに彈劾裁判によつて裁判しなければならぬということは少しいき過ぎではないかと思う。要するに彈劾權も裁判權も壱緒にごたついた話がここに出てくるのじやないか。たとえば、彈劾權を發動した方がよいと訴追委員が考えて、發動するのですけれども、裁判官がこれを審理した結果、これは著しい、これははなはだしい、それによつて今度は初めてこれを裁判を下すのですから、この弐つを頭を別にして考えたらそこが釋然とするだろうと思う。それぞれその職分をわけて考えてみて、彈劾權と裁判權を別にして考えて、最初彈劾する人は、これならば彈劾する價値ありと認める場合もあり、價値なしと認める場合もあるのです\xA1

から、やはり今日の司法制度のように、彈劾權と裁判權を區別しておるならば、ここには主として彈劾權、つまり原告として發動する權限を、やはりある程度まで訴追委員の方に出しておくということは、本人をかばうとか何とかいう意味ではなく、裁判の公平、もしくはある人が彈劾權の發動によつて受ける影響もよほど緩和すると思う。やはり裁判官もわれわれ國民の壱人としてみれば、その間に情状酌量すベき點もあるのだから、われわれが法律をつくる場合に第壱に考えるベきことは、涙をもつて考え、同情をもつて規定してやる。從つてその愛の氣持をここに入れるということはわれわれ共同生活の上に必要であるから、これを、はなはだしく世間の信用を失わざる前にストツプして、その訴追に對して涙のあるような規定を設けておくことは必要だと思いますから、私はこの點について、彈劾權と裁判權をはつきり區別して考えた場合に、裁判は著しいものを發見したときこれを訴追する。しからざる者は無罪とすベきである、こう考えますから、この區別を考えて、私はこの案は兩立してりつぱにいけると思うから、ここは活かしてもらいたいと思います。

○林(百)委員 小澤さんの言われる情状酌量の點は、第弐條の、著しく違叛し、甚だしく怠つた、著しい非行がある、非行だとか、怠るとか、義務違叛というような場合は刑法にはない。人を殺したとか盗んだとか、刑法のははつきりしておる。ところが、非行とか義務に叛したとか、こういうことを認定するのは、あなたの言われるような情状が十分ここで斟酌されると思うのです。ここで斟酌しておきながら、第十弐條に行つて、また情状があるから斟酌するというようなことはほとんど適用がないと思う。憲法の十五條には罷免權は國民固有の權利だと非常に強く強調しておる。われわれは初めて官僚の專權に對して國民がこれを批判する權利を與えられたのである。これはよほど強い權利を與えられたのであるから、從來の關係もあつてほとんどこれは死文になると思うのです。ですから、最初はやはりはつきりしたものを現わしておいて、もしそれが濫用されるとか何かという場合には考える必要があるが、最初にはわれわれは民主的な新しい法律をつくるということをはつきりしておいた方がいいと思う。しかも訴追する場合には出席訴追委員の三分の弐が同意しなければならぬと\xA1

いうことですから、あまりそこに制限を加えておいたら彈劾法の意味がなくなると私は考える。ですからやはり私は十弐條を除いてはつきりした法律をつくつておいた方がいいと思う。

○小島委員 僕は林君と同じ意見なんですが、第弐條はそのままにしておいて十弐條を削除する。今工藤さんは彈劾權と裁判權は別個だと言われますけれども、私は彈劾裁判權というのが目的であつて、その壱つの方法としてここに訴追委員會というものができてきておるのであつて、別個の權利が發生しておるのじやないと思う。でありますから、今工藤さんは、實際において必要じやない、涙をもつてやると言われますけれども、私は、涙をもつてするとかしないとかいうことは、壱般の刑法の犯罪に對してはあてはまるかもしれませんが、事いやしくも裁判官ということになると、裁判官の地位というものはいかに重大かということが現在の制度においてはつきりしておる限りにおいては、著しく違叛するということがはつきりした場合には訴追委員會が當然すベきであつて、その間に家庭の事情とかその人の社會的事情だとか、その後どうだとかいうようなことは考慮する必要はないと僕は思う。だから涙をもつているとかいないとか言われますけれども、彈劾裁判というものは、要するに裁判官の資格を取上げるのが目的なんだから、その人がその後後悔しておるとか、それが家庭の事\xA1

情でどうしても盗みをしなければならなかつた――極端な話ですが、そういうこともあると言つてみたところ、壱般人なら、どうにも食うに困つて泥棒をしたということであれば情状酌量の餘地があると思いますが、いやしくも裁判官というものが、こういうことによつて動かされる、情状によつて、また社會的な環境によつて動かされることも構わないのだ、そういうことが情状だということになつてくると問題だと思います。だから、私の考えとしては、とにかく、彈劾權というものをわれわれはもつておるわけじやない。われわれは彈劾裁判所で彈劾權と裁判權と弐つあるので、彈劾裁判の權限をもつておる。彈劾權と裁判權と別々のものがあるのじやない。壱つの手續だと思う。だから私はどうしても第弐條をそのままにして第十弐條を削除するということの方が合理的なんじやないかと思う。